原作と映像作品の違いについて

  • 2020.09.15 Tuesday
  • 19:39

JUGEMテーマ:日記+情報


子どもの頃TVで見ていたターザンはジャングルの他の動物たちと争うということが珍しかった。ライオンや豹あたりと戦うことはあったが、それは相手を殺すことなど目的とはしていなかった。人間も含めて他の弱い動物を守るためとか、そういう大義があったのだ。原作者のエドガー・ライス・バロウズはそのように映像化された作品を見て大変悲しんだそうだ。ターザンは本来、森の殺し屋だった。獲物を巡って他の肉食獣達と、身体を張って渡り合っていたのだ。


同様のことが林不忘の『丹下左膳』に出てくる柳生源三郎にも、水木しげる原作の『墓場鬼太郎』にも当てはまる。
柳生源三郎は冷酷な殺しの哲学を持つ剣豪であり、決して大川橋蔵が演じるべきさわやかな好青年ではなかった。鬼太郎もまた、しばしば一般人を欺したり殺したりの、悪党の側面を持っていて、後世に愛されるような単純な正義漢とはほど遠かった。

 

一体どうしてこのような倒錯が起きるのだろう。なぜターザンは密林の守護神になり、柳生源三郎は桃太郎侍になり、墓場鬼太郎は名探偵コナンになりはてたか。


理由は明らかだ。やはり映像化されるときには大衆に、特に『女・子供』に愛される必要があるのだ。癖のある悪党は、ひねた親父には好かれても、それ以外にはアピールしない。そして原作は深みと陰影に満ちた味わいを失い、浅薄な娯楽作品へと堕落する。

考えてみるとそれは原作者自身にも責任を課すことができる。誰にどう頼まれ、欺されたにせよ、彼ら自身がこの堕落を率先していた。
『類猿人ターザン』を著し絶賛されたバロウズはその後、映画と大差ないような娯楽的続編を書き続け、晩節を汚した。
『丹下左膳』の林不忘もまた映画をなぞるように変節を繰り返し、『墓場鬼太郎』を描いた水木しげるは自ら『ゲゲゲの鬼太郎』を幽界から呼び寄せた。


この商業主義を必ずしも非難はできないが、これらのダークヒーロー達がどのように最初のファンを獲得したのか、若い愛好家達に是非知っていただきたいと思うのだ。

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